和の宿
劣等感から開放されたい
おしゃべりな人は、そばに話を聞いてくれる人のいない、寂しい人です。
そう言われたとき、とてもショックでした。
私は話を聞くことよりも話すほうが好きですし、実際そうやって生きてきました。
でも、そう言われてみるともっともだな~ と思う事例がたくさんあることに気が
つきました。
自慢をする人は、劣等感の強い人です。
そう言われたときは、えっ そんなことないでしょ? ととても不思議な気がしました。
どうしてそんな結論になるの? とじっと先生の話を聞いていると、
「自分に自信のない人は、それを隠すために少しでも自信のあることを大げさに
伝えようとするのです。」
と続きました。
ふ~ん、そういうものなのか・・・
そう納得してしまうと、自分の言動がよく見えてきますよね。
自分の苦手な話になると、そこから話題を変えようと試みること ありませんか?
自分の知っていること、そこに話題を変えてさも自分はこのことに関しては詳しい
んだよ と急に能弁になる・・・
自分を認めてもらいたい と常に思っていた私は、かなりの部分に詳しくなって
いました。
もちろん好奇心が旺盛な人間ですから、いろんな知識を蓄えることは少しも
苦にならない。それどころか、その 知識を披露したときの周りの反応がとても
心地よいものであることが多く、すごいわね~ とか 物知りね と 言われることが、
自分を認めてもらっていることなんだ と錯覚していた部分がありました。
確かに自分が劣等感の塊だと、その時点で知ってはいました。
しかし、常に自信たっぷりな夫に当てはまるのだろうか?
そのこともじっくり思い返してみました。
ああ、思い当たるわ。
では、ほかの人は? うんうん、そう言われればそうかもしれないな。。。
だんだんと先生の話は本当なのだと思えるようになりました。
こころに自信がないという隙間があるから、それを埋めるために誰かに認めて
もらいたい と自分の強い部分を アピールするのでしょうね。
ひとの話を聞かない、ということも同じ理由なのかもしれません。
どうやって、私はその劣等感を克服したのでしょう?
本当に生意気な話なのですが、私は大体のことが普通以上にできていました。
学校の成績も、運動も、家庭に入ってからは料理もケーキ作りも和裁も洋裁も園芸も・・・
あげればきりがないくらい、手を掛けることが並以上にできるのです。
ですから、誰にでもできることだと思い込んでいました。
できて当然、できないのはやる気がないからだ と・・・
実に生意気な嫌味なやつですよね。
あるときから、
あれ? 誰にでもできることではないのかな?
という疑問も湧いてはいたのですが、やはり、ひとは みんな同じ能力を持っているはず。
できないのではなく、やろうとしていない。怠け者なのだ と結論付けていたのです。
それが、なすびの木にきゅうりはならない、と言われた。
メロンはトマトになれない と言われた。
頭では理解できても、それをこころに落とし込むのは時間がかかりました。
そうか~ 適材適所という言葉は知っていても、その言葉の持つ意味は知っていても、
理解はしていなかったな と思う ようになりました。
子供たちに、私はもっとリーダーシップをとってもらいたいと常に思っていました。
もっと積極的に行動して欲しい と。
娘をガール・スカウトに入れたのも、そのためでした。
しかし、彼女は前に出ることをとても嫌がりました。私はそのことが腹立たしかった・・・
そういったことをいろいろと思い出していたら、ああ、私はひどい母親だったな
と悲しくなったのです。
彼女の分 に見合ったこと以上の要求をしていたんだ と。
そう考えられるようになったら、いろんな場面で申し訳なかったな と思えるように
なりました。
そのことが、自分の劣等感を克服することにつながったと思います。
つまり、完璧な人間はいないのだ としっかりこころでも理解できるようになった
という事です。
だから、知ったかぶりをする必要はないんだ、わからないことは知らない、と言えば
よいし、教えて! と言えばよいんだ と。
加えて、できないことを無理にやろうとしてストレスを溜めるよりも、ごめんね、
できない・・・ とすなおに言えば、余 分な怒り (なぜ 私がやらなければいけないの!)
や憎しみに近い感情( あのひとは逃げているのよ ) といったものから開 放されることに
気がつきました。
いま、私の持っているもの以上の要求をする人はほとんどいません。
私のことを知らないひとの中にいると、とても気が楽です。
言われたことだけをしていれば、それで充分に満足してもらえるのですから・・・
以前ほど認めてもらいたい! と強く思わなくなったことも事実です。
自分の分 というものを少しずつ理解できるようになったからでしょうか?
それでも、今でも要求された以上のことをさらっとやり、あらっ という表情で見られる
ことは、結構気持ちが良いですね(笑)
自分が何者か - かぼちゃであって、どうあがいてもじゃが芋にはなれない と気がついて
から、とても楽になりました。
かぼちゃである自分を最大限に生かそう そう思っています。
2003.10.20
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